旅をするということ
今週のお題「行ってみたい場所」
少し、とりとめもない話をします。
旅をしたくなる、というのは、皆様にとってはどんなときでしょうか。
もう何も考えたくないくらいに、ストレスがいっぱいなとき?
昔食べた美味しいものを、テレビで見たときでしょうか。
それとも、美しい風景や絵画展のチラシを見たときでしょうか?
そして、旅をする前と後とでは、
一体、自分に違いはあるのでしょうか?
見た、聞いた、食べた、等
観光は、経験として、目には見えませんが、自分の中に蓄積されてゆきます。
そして、
その経験が、さらなる旅を誘うことも、あると思います。
その中のひとつとして、
私にとって、「おや?」と思ったことを挙げると、
高松に行った際、福島の街の風景に「何かが似ている」と思ったときに感じた、不思議な気持ちがありました。
この二つの都市、どちらも行ったことがある人は、日本にもものすごくたくさんいる、とは言えないと思いますし、
ただの私の主観です。
が、福島駅に県庁から歩いたときに感じたものと、
高松の街中を歩いて思ったことが、とても似ていました。
あ、道がせり上がって駅方面に向かっていくの、何かが似ている。
とても寒い街と、あたたかで温暖な街に、
なにか共通点はあるだろうか。
それを「似ている」と感じた私の主観が正しいのか、あるいはこじつけなのかどうかは、直接街に行って判断していただくくらいしかないかな、とも思うのですが…
しかし、「知らない街」に「自分の知っている要素を見つけること」は、未知のものを、一気に身近にすることと思います。
そして、「知っている」の抽斗が多ければ多いほど、
その経験のクオリアが自分の中にあればあるほど、
「好きなもの」は増える、
即ち、「しあわせであることができる」ようにも思えるのです。
それが、私を、旅に連れて行くひとつの原動力になったのが、上記の、「高松福島似ている件」でした。
そして、もう一件。
名古屋に住む私が、たとえば桑名から名古屋に帰る際には必ず、揖斐川にかかる大きな橋を通ることになります。
私は、その、橋のかかる穏やかな川面を眺めることが、とても好きでした。
特に夕陽が映る瞬間が、なんとも言われぬ、郷愁を掻き立てるのです。
この、キュッと心臓を掴まれるような感じは、なぜ起きるのだろう。
そんなことを不思議に思っていました。
そして、あるとき、
その、 川の風景ととてもよく似たものを、
まさかの国外の風景を写した写真展で目撃したのです。
それは、日本からは近くて遠い地、
サハリン(旧樺太)の写真展でのことでした。
私の祖母は、樺太からの引き揚げ者だったのですが、
大きな川があって…などという話は、あまり聞いたことがありませんでした。
が、
目の前にあったのは、
とても、揖斐川の風景と酷似していて、
「ええ〜〜?!」と、思わず声を出してしまうほど、似ていました。
血の見せる記憶、などとは、言えないと思います。
が、デジャヴというには、あまりにも、不思議な気持ちになりました。
元々の私の、揖斐川の風景を愛おしく思う気持ちが、
樺太への郷愁を呼んだのか、
わかりません。
が、
そういったことは、わたしだけにあるものでとないような気がします。
そして、その積み重ねが、
日常において、非日常とのあわいを見せ、
また旅に出たいと、思わせるようになるのではないか。
…長くなりましたが、
わたしの行きたい場所。
それは、樺太です。
祖母は亡くなってしまいましたが、
彼女が体験したであろうことを、
わたしも見聞きしたい。
見聞きしてどうするんだ、といえば、
冒頭に戻って、
その方がしあわせそうだから、と、そうお答えします。
そして、そんなことのつまった展示を、
11/1〜11/12、名古屋 高岳ヒュッテで行います…
きてね!(←宣伝かい!!)